はじめに
民法における留置権は、物権の一種であり、特定の状況下で債権者がその債権の弁済を受けるまで、他人の物を占有し続けることができる権利です。この権利は、当事者間の合意に基づいて発生する約定担保物権とは異なり、法律に定められた要件を満たすことで当然に発生する法定担保物権として位置付けられています。その根底には、公平の原理があり、債権者が目的物に対して支出した費用や、目的物から生じた債権を有する場合に、その弁済を間接的に強制する目的で認められています。
留置権の定義と法的性質
定義
民法第295条第1項「留置権」
「他人の物の占有者は、その物に関して生じた債権を有するときは、その債権の弁済を受けるまで、その物を留置することができる。ただし、その債権が弁済期にないときは、この限りでない」
この条文が意味するところは、他人の物(動産または不動産)を適法に占有している者が、その物自体から発生した、あるいはその物に関連する同一の法律関係や事実関係から生じた債権を有し、かつその債権が弁済期に達している場合に、その債権の全額が弁済されるまで、当該物を自己の手元に留め置くことができる権利を持つということです。この権利は、債務者に対して支払いを促す間接的な強制力として機能します。
1.2. 不法行為による占有の例外(民法第295条第2項)
民法第295条第2項は、留置権の成立を制限する重要な規定です。「前項の規定は、占有が不法行為によって始まった場合には、適用しない」と明記されており、占有が不法行為によって開始された場合には、たとえ他の要件を満たしていても留置権は成立しないとされています。
この規定は、不法な手段で物を占有した者にまで法的な保護を与える必要はないという政策的判断に基づいています。具体的には、占有が当初は適法であったとしても、その後、賃貸借契約の解除などにより占有権原を喪失し、占有すべき権利がないことを知りながら他人の物を不法に占有し続けた場合には、その不法占有中に発生した債権に基づいて留置権を行使することはできません。例えば、賃貸借契約が債務不履行により解除された後に、賃借人が不法に建物を占有する間に支出した有益費の償還請求権に基づいて、建物の留置を主張することは認められません。また、不適法な占有であることについて、善意であっても過失のある占有者に対しても、留置権の行使は認められないとされています。
1.3. 留置権の法的性質
留置権は、日本の民法において「物権」として分類されます。この物権としての性質は、留置権の最も重要な特徴であり、その効力範囲に決定的な影響を与えます。
物権であることの最も重要な含意は、その「第三者対抗力」にあります。これは、留置権者が、契約の相手方である債務者に対してだけでなく、目的物の譲受人や競売の買受人といった第三者に対しても、留置権を主張し、物の引渡しを拒絶できるという強力な効力を持つことを意味します。この第三者対抗力は、債権に過ぎない同時履行の抗弁権との決定的な違いであり、留置権が特に不動産取引や倒産処理において非常に強力な権利となる理由を明確にしています。
例えば、競売にかけられている不動産に留置権が成立していた場合、留置権者はその不動産の買受人に対しても、占有を続ける限り留置権を対抗できます。これは、買受人が債務の弁済を行うまで、留置権者が不動産の引渡しを拒否できることを意味します。このように、留置権は登記を必要としないにもかかわらず、その対象物が譲渡されたり、強制執行によって売却されたりしても、その効力を維持し、事実上、新しい所有者に対して債務の弁済を迫る強力な手段となります。この強力な効果は、留置権が単なる物の留置に留まらず、債権回収における重要なレバレッジとなりうることを示しており、不動産取引においては、目に見えない潜在的な負担として慎重な確認が必要となる場合があります。
2. 留置権の成立要件
留置権が有効に成立するためには、民法第295条の規定に基づき、以下の4つの要件をすべて満たす必要があります。
2.1. 他人の物の占有
留置権の目的となるのは「他人の物」であり、これは占有者以外の者に属する物を指します。この「他人」は必ずしも債務者である必要はなく、第三者の所有物であっても留置権は成立し得ます。例えば、Aが所有する自動車をBが借り、BがCに修理を依頼した場合、Cは修理代金が支払われるまで、Aに対し自動車の留置を主張することができます。
留置権の対象となる物は、動産、不動産のいずれでも構いません。また、占有の形態としては、留置権者自身が直接物を占有する「自己占有」だけでなく、代理人を通じて占有する「代理占有」も認められています。
2.2. 物に関して生じた債権の存在(牽連性)
被担保債権が「その物に関して生じた」ものであること、すなわち債権と目的物との間に密接な関連性(牽連性)があることが、留置権成立の最も複雑かつ重要な要件です。この牽連性の有無は、具体的な事案に応じて慎重に判断されます。
2.2.1. 牽連性が認められる具体例
牽連性が認められる典型的なケースは、債権が物自体から発生する場合や、物の返還請求権と同一の法律関係または事実関係から発生する場合です。
- 物自体から債権が発生する事例:
- 賃借家屋に賃借人が支出した必要費や有益費の償還請求権が挙げられます。これらの費用は、建物の保存や改良のために直接支出されたものであり、建物自体に関して生じた債権と認められます。
- 寄託物の瑕疵によって損害を受けた場合の損害賠償債権も、物自体に起因するため牽連性が認められます。
- 物の返還請求権と同一の法律関係(または事実関係)から債権が発生する事例:
- 時計の修理委託契約から生じた修理代金債権と、依頼者の時計引渡請求権は、同一の契約関係から派生するため牽連性があります。
- 売買契約が取り消された場合の、買主の代金返還請求権と売主の売買目的物の返還請求権も、同一の法律関係(売買契約の取消し)から生じるため牽連性が認められます
- 傘の取り違えという同一の事実から生じた、互いの傘の返還請求権も牽連性があるとされます
- 特殊な事例: 建物買取請求権が行使された場合の代金債権は、建物自体から発生した債権とみなされ、この債権に基づき建物を留置する者は、建物だけでなくその敷地についても留置権を行使できる場合があります。ただし、この場合、敷地の占有による利得は不当利得として返還しなければなりません
2.2.2. 牽連性が否定される具体例
一方で、一見関連性があるように見えても、牽連性が否定されるケースも存在します。
- 造作買取請求権: 建物の賃借人が賃貸人の承諾を得て建物に付加した造作の買取請求権は、造作について生じた債権であり、建物自体に関して生じた債権ではないため、この債権に基づいて建物を留置することはできません。
- 不動産の二重売買における損害賠償債権: 不動産が二重に売買され、第一の買主が所有権を取得できなかった場合の売主に対する損害賠償債権は、登記を得た第二の買主からの引渡請求に対して留置権を主張することはできません。これは、当該債権が第二の買主の返還請求権と同一の法律関係から生じたとはいえないためです。
- 他人物売買における損害賠償債権: 買主が売主の債務不履行による損害賠償債権に基づいて、所有者からの返還請求に対して留置権を行使することも、牽連性が否定されます。
- 敷地に対する留置権の否定: 建物の賃借人が建物に関して必要費を支出した場合であっても、建物所有者ではない第三者が所有する敷地を留置することはできません。これは、建物に関する債権と敷地との間に直接的な牽連性がないためです。
「牽連性」の判断は、留置権の成立を左右する最も複雑かつ重要な要素です。多くの具体例や判例が示すように、単に「物に関して生じた」という文言以上の、法的・事実的関連性の深度が求められます。特に、造作買取請求権や二重売買の事例は、債権と物の直接的な関係性(物自体から発生するか、または同一の法律・事実関係から発生するか)が厳格に解釈されることを示唆しています。このような牽連性に対する厳格な解釈は、留置権が広範な債権回収の道具として濫用されることを防ぎ、その適用範囲を、物の保存、改良、または直接的な取引の文脈に限定することで、公平の原理に則った運用を確保しています。
2.3. 占有が不法行為によって始まっていないこと
民法第295条第2項の規定により、留置権は、占有が不法行為によって始まった場合には成立しません。これは、不法な占有者にまで留置権を認めることは、法秩序の維持や公平の観点から不適切です。
この要件は、占有の開始時だけでなく、占有が継続する間も適用されます。たとえ当初は適法に占有権原を有していたとしても、その後その権原を喪失し、占有すべき権利がないことを知りながら他人の物を不法に占有し続けた場合には、その不法占有中に発生した債権に基づいて留置権を行使することはできません。例えば、賃貸借契約が解除された後も建物を不法に占有し続けた賃借人が、その間に有益費を支出したとしても、その費用償還請求権に基づいて建物を留置することは認められません。また、不適法な占有であることについて、善意であっても過失のある占有者に対しても、留置権の行使はできないとされています。
2.4. 債権が弁済期にあること
被担保債権が弁済期に達していることは、留置権が成立するための必須要件です。弁済期が到来していない債権では、物の引渡しを拒絶する根拠が立たないため、留置権は成立しません。
この原則には、民法第196条第2項ただし書に関連する重要な例外があります。悪意の占有者が支出した有益費の償還請求権に対して、裁判所が所有者の請求により相当の期限を許与した場合、その期限が到来するまでは債権が弁済期にない状態となるため、留置権は成立しないとされています。
3. 留置権の法的効力
留置権が成立すると、留置権者はその目的を達成するために様々な法的効力を有します。
3.1. 物の留置(引渡し拒絶権)
留置権の最も基本的な効力は、被担保債権の弁済を受けるまで、目的物の引渡しを拒絶できる権利です。この引渡し拒絶権は、債務者に対して債務の履行を間接的に強制する手段となります。例えば、修理を終えた時計の所有者が修理代金を支払わない場合、時計店は代金が支払われるまで時計の引渡しを拒否することができます。
3.2. 第三者への対抗力
留置権は物権であるため、その効力は債務者との間の契約関係に限定されず、目的物の譲受人や競売の買受人といった第三者に対しても主張することができます。これは、留置権が登記を必要としないにもかかわらず、非常に強力な対抗力を有することを意味します。例えば、競売にかけられた不動産に留置権が成立していた場合、留置権者はその不動産の買受人に対しても留置権を対抗し、債務の弁済があるまで引渡しを拒否できます。これにより、競売の買受人は、実質的に留置権者の債権を弁済しなければ、目的物の完全な引渡しを受けることが困難となります。
3.3. 裁判上の効果:引換給付判決
物の引渡しを求める訴訟において、被告(留置権者)が留置権の抗弁を提出し、それが認められた場合、裁判所は原告の請求を全面的に棄却するのではなく、「引換給付判決」を下します。これは、「原告は、その物に関して生じた債権を被告に弁済すると引換えに、被告は原告に物を引き渡せ」という形式の判決であり、債権の弁済と物の引渡しが同時に行われるべきという公平の原則を反映しています。
3.4. 不可分性(民法第296条)
民法第296条は、留置権の「不可分性」を規定しています。「留置権者は、債権の全部の弁済を受けるまでは、留置物の全部についてその権利を行使することができる」とされており、これは留置権の重要な効力の一つです。
この不可分性により、被担保債権の一部が弁済されたとしても、留置権者は留置物の一部を返還する義務を負わず、債権の全額が弁済されるまで留置物全体を保持し続けることができます。例えば、修理代金5万円の時計について、所有者が2万円を支払ったとしても、時計店は残りの3万円が支払われるまで時計全体を留置し続けることができます。この原則は、担保物権に共通する性質であり、先取特権、質権、抵当権にも準用されています。
留置権の不可分性は、債務者にとって大きなプレッシャーとなります。たとえ少額の債務が残っていても、高価な目的物全体を留置し続けることができるため、債務者は全額弁済を迫られることになります。これは、留置権が単なる引渡し拒絶権に留まらず、事実上の強力な債権回収手段となる一因です。しかし、この強力な不可分性が債務者にとって過度な負担となる可能性も考慮されています。そのため、民法第301条では、債務者が相当の担保を提供することで留置権の消滅を請求できる制度が設けられています。この代担保提供による消滅請求の仕組みは、留置権の強力な不可分性から生じる不均衡を是正し、公平性を保つための重要な調整弁として機能しています。
3.5. 果実の収取権(民法第297条)
民法第297条は、留置権者が留置物から生じる果実を収取し、他の債権者に先立って、これを自己の債権の弁済に充当できる権利を認めています。ここでいう「果実」とは、例えば不動産の賃料や、農作物の収穫物などを指します。
収取した果実は、まず債権の利息に充当し、なお残余があるときは元本に充当しなければならないとされています。これにより、留置権者は、留置物の管理を通じて発生する利益を、自身の債権回収に直接充てることが可能となります。また、債務者の承諾を得て留置物を第三者に賃貸した場合、その賃料を被担保債権の弁済に充当することも認められています。
3.6. 競売申立権
留置権者は、民事執行法に基づき、留置物の競売を申し立てる権利を有します。この競売は「形式的競売」と呼ばれ、抵当権や質権のように、競売代金から他の債権者に優先して弁済を受ける「優先弁済権」を伴うものではありません。
しかし、留置権に優先弁済権がないにもかかわらず競売申立権が認められている点は、その性質が「留置的効力」に主眼を置きつつも、最終的な債権回収の手段を全く閉ざさないという民法のバランス感覚を示しています。事実上の優先弁済を受けることが可能となります。
4. 留置権者の義務と費用償還請求権
留置権者は、その強力な権利を行使する一方で、留置物に対して一定の義務を負い、また、支出した費用について償還を請求する権利も有します。
4.1. 善良な管理者の注意義務(民法第298条第1項)
留置権者は、留置物を占有・保管するにあたり、社会通念上当然に要求される「善良な管理者の注意(善管注意義務)」をもってこれを行わなければなりません。これは、自己の財産を管理する場合よりもさらに慎重な注意が求められる義務です。この義務に違反した場合、後述の消滅請求の対象となります。
4.2. 留置物の使用・賃貸・担保提供の制限(民法第298条第2項)
留置権者は、原則として、債務者の承諾がなければ、留置物を使用したり、第三者に賃貸したり、または他の債務の担保に供したりすることはできません。
ただし、その物の保存に必要な使用については、債務者の承諾なしに行うことが例外的に認められています。例えば、家屋の賃貸借が終了した後も、賃借人が家屋について留置権を有する場合、引き続きその家屋に居住することは、家屋の保存に必要な使用の範囲内と解されています。しかし、借地上の建物を第三者に賃貸することや、留置している船舶を遠方に航行させて貨物の運送業務に使用することは、保存に必要な使用の範囲を超えると判断される場合があります。
4.3. 義務違反による留置権の消滅請求(民法第298条第3項)
留置権者が上記の善管注意義務に違反したり、債務者の承諾なく留置物を使用・賃貸・担保提供したりした場合、債務者(または所有者)は留置権の消滅を請求することができます。
この消滅請求権は形成権であるため、債務者の一方的な意思表示によって留置権を消滅させることができ、留置権者の承諾は不要です。また、義務違反が終了したか否か、あるいは実際に損害が発生したか否かを問わず、消滅請求は可能です。
4.4. 費用償還請求権(民法第299条)
留置権者は、留置物の管理や改良のために費用を支出した場合、その償還を所有者に請求する権利を有します。
- 必要費の償還請求: 留置権者が留置物について必要費(物の保存のために欠くことのできない費用)を支出した場合は、所有者にその全額の償還を請求できます。この場合、その費用によって物の価格が増加しているか否かは問われません。
- 有益費の償還請求: 留置権者が留置物について有益費(物の改良のために支出した費用)を支出した場合は、その費用による価格の増加が現在も存在する場合に限り、所有者の選択に従い、支出した金額または増加した価格のいずれかを償還させることができます。価格の増加が現存しない場合は、有益費の償還請求は認められません。
有益費の償還請求においては、裁判所は、所有者の請求により、その償還について相当の期限を許与することができます。この期限が許与された場合、その期間中は債権が弁済期にない状態となるため、留置権の行使は認められません。
5. 留置権の消滅
留置権は、その目的が達成されたり、成立要件が満たされなくなったりした場合に消滅します。
5.1. 被担保債権の消滅(弁済、時効など)
留置権は、被担保債権の存在を前提とする「付従性」という性質を持つため、その基礎となる債権が消滅すれば、留置権も当然に消滅します。債務が完全に弁済された場合や、被担保債権が消滅時効によって消滅した場合は、留置権も消滅します。
5.2. 占有の喪失(民法第302条)
民法第302条は、「留置権は、留置権者が留置物の占有を失うことによって、消滅する」と規定しています。留置権は物の占有を基礎とする権利であるため、占有を失うことはその根拠を失うことになります。
ただし、この原則には例外があります。民法第298条第2項の規定により、債務者の承諾を得て留置物を第三者に賃貸したり、または質権の目的としたりした場合は、留置権者は間接占有を有するため、占有喪失とはならず、留置権は消滅しません。また、留置権者が占有を奪われた場合でも、占有回収の訴え(民法第200条)によって現実に占有を回復したときは、占有を喪失しなかったこととみなされ、留置権も消滅しなかったこととなります。
5.3. 代担保の提供による消滅(民法第301条)
民法第301条は、「債務者は、相当の担保を供して、留置権の消滅を請求することができる」と定めています。この規定は、債務額が僅少であるにもかかわらず高額な目的物が留置されるなど、留置権の不可分性から生じる不均衡を是正し、公平を図る趣旨で設けられています。
5.4. 留置権の行使と債権の消滅時効(民法第300条)
民法第300条は、「留置権の行使は、債権の消滅時効の進行を妨げない」と明確に規定しています。これは、単に物を留置しているだけでは、その基礎となる被担保債権の消滅時効は中断しないことを意味します。
この規定は、留置権が債権の弁済を間接的に強制する「受動的」な機能を持つ一方で、債権そのものの能動的な主張や行使とは異なるという、留置権の性質を反映しています。つまり、留置権の行使は物の引渡しを拒絶しているに過ぎず、被担保債権そのものを行使しているわけではないため、時効中断事由には該当しないと解釈されます。
しかし、この原則には重要な例外があります。物の引渡請求訴訟において、留置権者が留置権の存在を主張して引渡しを拒絶した場合には、留置権の行使とともに被担保債権について裁判上の請求があったものとみなされます。この場合、訴訟継続中は債権の消滅時効の進行が猶予され、さらに訴訟終結後6ヶ月以内に他の時効中断事由(例えば、改めて債務の履行を求める訴訟提起など)を講じることで、時効中断の効力が維持されるとされています。
この民法300条の規定は、債権者は、単に物を留置しているだけでは、その基礎となる債権が時効によって消滅するリスクがあるため、留置権に依拠するだけでなく、別途、債権の消滅時効を中断させるための措置(例えば、債務承認の取得、催告、訴訟提起など)を講じる必要があります。
6. 留置権と同時履行の抗弁権の比較
留置権と類似の機能を持つ権利として「同時履行の抗弁権」があります。これら二つの権利は、いずれも公平の原則に基づいて認められ、相手方の履行があるまで自己の履行を拒絶できるという共通点を持っています。しかし、その法的性質や適用範囲には決定的な相違点が存在します。
以下の表に、両者の主な違いをまとめます。
項目 | 留置権 | 同時履行の抗弁権 |
法的性質 | 物権 | 債権 |
発生原因の限定 | 物に関して生ずれば契約に限定されない | 同一の双務契約から生じた対価的な債務間に限る |
拒絶の内容 | 物の留置に限る | 給付の内容を問わず履行を拒絶できる |
権利の目的 | 動産と不動産のみ | 一切の給付 |
行使の相手方 | すべての第三者に主張可能 | 双務契約上の相手方に対してだけ主張可能 |
裁判上の判決 | 引換給付判決がなされる | 引換給付判決がなされる |
不可分性 | 不可分(民法296条) | 拒絶できる債務は相手方の不履行の度合いに応じて割合的 |
代担保による消滅 | 代担保の提供で留置権は消滅する(民法301条) | 代担保による消滅請求はできない |
競売の申立権 | 競売申立権がある(民事執行法195条) | 競売申立権はない |
最も重要な違いは、留置権が「物権」であるのに対し、同時履行の抗弁権が「債権」である点です。
これにより、留置権は目的物の譲受人や競売の買受人といった第三者に対しても主張できる「第三者対抗力」を持つ一方で、同時履行の抗弁権は契約の相手方に対してのみ主張可能です。また、留置権には「不可分性」があり、債権の全額が弁済されるまで目的物全体を留置できますが、同時履行の抗弁権は相手方の不履行の度合いに応じて拒絶できる債務が割合的である点が異なります。
まとめ
留置権の本質は、公平の原理に基づき、債権者がその物に関して生じた債権の弁済を受けるまで、当該物の引渡しを拒絶することで、債務の履行を間接的に強制する点にあります。
留置権が物権として「第三者対抗力」を持つことは、債権回収手段としての強力と言えます。特に、不動産取引や倒産手続きにおいて、登記を要しないにもかかわらず、競売の買受人を含む第三者に対して引渡しを拒絶できる能力は、留置権は債権者にとって非常に有効な債権回収手段です。
出典(2025年6月14日アクセス)
- 留置権 - Wikipedia
- 民法第295条 - Wikibooks
- 民法第299条 - Wikibooks
- 金子総合法律事務所 民法第295条(留置権の内容)
- 担保物権法-留置権 - 炭竈法律事務所(寝屋川市・枚方市)
- 北九州の弁護士の相続専門サイト留置権とは
- 第2章 留置権 - 辰已法律研究所https://www.tatsumi.co.jp/stream/documents/ebisawa_16032101-1.pdf
- 金子総合法律事務所 民法第302条(占有の喪失による留置権の消滅)
- 一般財団法人 不動産適正取引推進機構 | 最高裁判例一覧 担保権等に関する判例 - 質権・留置権
- 金子総合法律事務所 民法第301条(担保の供与による留置権の消滅)
- 【債権回収】担保ってなに?基本をおさえよう | ベンチャースタートアップ弁護士の部屋
- tek-law.jp,民法第297条(留置権者による果実の収取)
- 民事・商事留置権を活用した債権回収をわかりやすく解説 - 文の風東京法律事務所,ttps://ik-law.jp/ryuchiken/
- たちばな総合法律事務所, 取引先の倒産への対応 - 解決事例
- 金子総合法律事務所,民法第298条(留置権者による留置物の保管等)
- Course 3.留置権の消滅
- tek-law.jp 民法第299条(留置権者による費用の償還請求)
- 留置権の基本的な性質・解説
- 金子総合法律事務所, 民法第300条(留置権の行使と債権の消滅時効)
判例
- 家屋明渡請求(最高裁判決 昭和29年01月14日)借家法第5条(現・借地借家法第33条)
借家法第5条による造作買取代金債権は建物に関して生じた債権か
借家法第5条による造作買取代金債権は、造作に関して生じた債権であつて、建物に関して生じた債権ではなので、建物を留置できない。 - 家屋明渡等請求(最高裁判決 昭和29年07月22日)借家法第5条(現・借地借家法第33条),民法第533条
造作買取請求権行使の場合における造作代金支払義務と家屋明渡義務との関係――留置権または同時履行抗弁権の成否
借家法第5条により造作の買収を請求した家屋の賃借人は、その代金の不払を理由として右家屋を留置し、または右代金の提供がないことを理由として同時履行の抗弁により右家屋の明渡を拒むことはできない。 - 船舶引渡等請求(最高裁判決 昭和30年03月04日) 民法第196条,民法第298条
民法第298条第2項但書にいわゆる留置物の保存に必要な使用
木造帆船の買主が、売買契約解除前支出した修繕費の償還請求権につき右船を留置する場合において、これを遠方に航行せしめて運送業務のため使用することは、たとえ解除前と同一の使用状態を継続するにすぎないとしても、留置物の保存に必要な使用をなすものとはいえない。 - 家屋明渡請求(最高裁判決 昭和33年01月17日)民法第298条,民法第299条
留置物の使用が物の保存に必要な範囲を超えた場合の必要費、有益費の支出とその償還請求権に基く留置権発生の有無
留置権者が留置物について必要費、有益費を支出しその償還請求権を有するときは、物の保存に必要な範囲を超えた使用に基く場合であつたとしても、その償還請求権につき留置権の発生を妨げない。 - 家屋明渡請求(最高裁判決 昭和33年03月13日)借家法第5条(現・借地借家法第33条)
- 債務不履行その他背信行為による賃貸借の解除と借家法第5条の適用の有無
- 借家法第5条は、賃貸借が賃借人の債務不履行ないしその背信行為のため解除された場合には、その適用がないものと解すべきである。
- 物の引渡を求める訴訟において留置権の抗弁を認容する場合と判決主文
物の引渡を求める訴訟において、被告の留置権の抗弁を認容する場合には、原告の請求を全面的に棄却することなく、その物に関して生じた債権の弁済と引換に物の引渡を命ずべきものと解するを相当とする。
- 家屋明渡等請求(最高裁判決 昭和34年09月03日)
売渡担保に供した不動産の返還義務不履行による損害賠償債権をもつてその不動産を留置し得るか。
不動産を売渡担保に供した者は、担保権者が約に反して担保不動産を他に譲渡したことにより担保権者に対して取得した担保物返還義務不履行による損害賠償債権をもつて、右譲受人からの転々譲渡により右不動産の所有権を取得した者の明渡請求に対し、留置権を主張することは許されない。 - 家屋明渡等請求(最高裁判決 昭和41年03月03日)
建物の売買契約解除後の不法占有と民法第295条第2項
建物の売買契約によりその引渡を受けた買主が、右売買契約の合意解除後売主所有の右建物を権原のないことを知りながら不法に占有中、右建物につき必要費、有益費を支出したとしても、買主は、民法第295条第2項の類推適用により、当該費用の償還請求権に基づく右建物の留置権を主張できない - 家屋明渡請求(最高裁判決 昭和43年11月21日)
不動産の二重売買の場合の履行不能を理由とする損害賠償債権をもつてする留置権の主張の許否
不動産の二重売買において、第二の買主のため所有権移転登記がされた場合、第一の買主は、第二の買主の右不動産の所有権に基づく明渡請求に対し、売買契約不履行に基づく損害賠償債権をもつて、留置権を主張することは許されない。 - 家屋明渡等請求(最高裁判決 昭和44年11月06日)民法第608条
借地上の家屋に関する費用償還請求権とその敷地の留置権
借地上の家屋に関する費用償還請求権は、その家屋の敷地自体に関して生じた債権でもなければ、その敷地の所有者に対して取得した債権でもないから、右請求権を有する者であつても、その家屋の敷地を留置する権利は有しない。 - 家屋明渡等請求(最高裁判決 昭和46年07月16日)
建物賃貸借契約解除後の不法占有と民法295条2項の類推適用
建物の賃借人が、債務不履行により賃貸借契約を解除されたのち、権原のないことを知りながら右建物を不法に占有する間に有益費を支出しても、その者は、民法295条2項の類推適用により、右費用の償還請求権に基づいて右建物に留置権を行使することはできない。 - 建物明渡請求(最高裁判決 昭和47年11月16日)民訴法186条
- 甲所有の物を買受けた乙が売買代金を支払わないままこれを丙に譲渡した場合における丙の甲に対する物の引渡請求と甲の留置権の抗弁
甲所有の物を買受けた乙が、売買代金を支払わないままこれを丙に譲渡した場合には、甲は、丙からの物の引渡請求に対して、未払代金債権を被担保債権とする留置権の抗弁権を主張することができる。 - 物の引渡請求に対する留置権の抗弁を認容する場合においてその被担保債権の支払義務者が第三者であるときの判決主文
物の引渡請求に対する留置権の抗弁を認容する場合において、その物に関して生じた債務の支払義務を負う者が、原告ではなく第三者であるときは、被告に対し、その第三者から右債務の支払を受けるのと引換えに物の引渡をすることを命ずるべきである。
- 甲所有の物を買受けた乙が売買代金を支払わないままこれを丙に譲渡した場合における丙の甲に対する物の引渡請求と甲の留置権の抗弁
- 所有権移転登記抹消等請求(最高裁判決 昭和51年06月17日)
農地買収・売渡処分が買収計画取消判決の確定により失効した場合と被売渡人から右土地を買い受けた者の有益費償還請求権に基づく土地留置権の行使
農地買収・売渡処分が買収計画取消判決の確定により当初にさかのぼつて効力を失つた場合において、被売渡人から右土地を買い受けた者が土地につき有益費を支出していても、その支出をした当時、買主が被買収者から買収・売渡処分の無効を理由として所有権に基づく土地返還請求訴訟を提起されており、買主において買収・売渡処分が効力を失うかもしれないことを疑わなかつたことにつき過失があるときには、買主は、右有益費償還請求権に基づく土地の留置権を行使することができない。 - 建物収去土地明渡等本訴、不当利益返還反訴(最高裁判決 昭和58年03月31日)民法第482条,仮登記担保契約に関する法律第3条1項
清算金の支払のないまま仮登記担保権者から目的不動産の所有権を取得した第三者の債務者に対する右不動産の明渡請求と債務者の留置権の抗弁
清算金の支払のないまま仮登記担保権者から第三者が目的不動産の所有権を取得した場合には、債務者は、右第三者からの右不動産の明渡請求に対し、仮登記担保権者に対する清算金支払請求権を被担保債権とする留置権の抗弁権を主張することができる。 - 建物所有権移転登記抹消登記手続、建物明渡(最高裁判決 平成9年04月11日)民法第369条(譲渡担保)
譲渡担保権の実行として譲渡された不動産を取得した者の譲渡担保権設定者に対する明渡請求と譲渡担保権設定者の留置権の主張の可否
譲渡担保権設定者は、譲渡担保権の実行として譲渡された不動産を取得した者からの明渡請求に対し、譲渡担保権者に対する清算金支払請求権を被担保債権とする留置権を主張することができる。