行政事件訴訟法は、国民と行政との間の紛争を解決するための法律です。
その中で、仮の差止めは、本案判決が出る前に、行政処分の執行を一時的に停止させるための重要な制度です。
仮の差止めは、行政処分の執行により回復困難な損害が生じるおそれがある場合に、国民の権利利益を保護するために利用されます。
仮の差止めが認められるためには、いくつかの要件を満たす必要があります。
その中でも特に重要なのが、「償うことのできない損害」が生じる可能性があることです。
これは、金銭で解決できない、重大かつ回復困難な損害を指します。
本稿では、行政事件訴訟法における仮の差止め制度の概要を説明し、特に「償うことのできない損害」の概念について詳しく解説します。
具体例を挙げながら、どのような場合にこの要件が認められるのか、公共の福祉や個人の権利・自由との関係でどのように判断されるのかを検討していきます。
行政事件訴訟法における仮の義務付け/差止め制度の概要
行政事件訴訟法は、平成16年の改正により、国民の権利利益の救済をより実効的に行うため、差止めの訴えを新設しました 。
改正行訴法施行状況検証研究会(第7回) -仮の差止め・その他
それと同時に、本案判決前に仮の救済を可能とする制度として、仮の差止めが導入されました 。
改正前は、仮の差止めに関する規定は設けられていませんでした。
仮の差止めは、義務付けの訴えや差止めの訴えが提起された場合に、本案判決前に暫定的な救済を図るための制度です。
例えば、ある人が違法建築物の除去を求めて義務付けの訴えを提起した場合、判決が出るまでに建物が倒壊してしまっては困ります。
このような場合に、仮の義務付けによって、行政庁に建物の除去を命じることができます。
また、造成工事によって土地が沈下している場合に、工事の差止めの訴えを提起するとともに、仮の差止めによって工事を一時的に停止させることができます。
仮の差止めは、行政庁がまだ処分を行っていない段階で、裁判所がその処分をしてはならないと命じる裁判です 。
本案判決と同じ内容を、判決前に仮に命じるという重大な効力を持つため、執行停止に比べて要件が加重されています。
これは、仮の差止めが、行政庁の処分権を制限する強力な手段であるためです。
仮の差止めが認められるためには、以下の3つの要件をすべて満たす必要があります 。
- 差止めの訴えの提起: 差止めの訴えが裁判所に提起されていること。
- 償うことのできない損害を避けるための緊急の必要性: 行政処分の執行により、金銭では償いきれない重大な損害が生じる可能性があり、かつ、緊急にその損害を避ける必要があること。
- 本案に理由があるとみえること: 本案の差止めの訴えにおいて、勝訴の見込みがあること。
さらに、仮の差止めは、「公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれがある」場合には認められません 。
仮の差止めの認容率の低さ
改正行政事件訴訟法が施行されてから10年間で、仮の差止めの認容事例は全国で10件にも満たないという調査結果があります。
これは、仮の差止めの要件の一つである「償うことのできない損害を避けるため緊急の必要」という要件のハードルの高さが原因の一つと考えられています 。
「償うことのできない損害」の定義
「償うことのできない損害」とは、金銭賠償では回復できない損害を指します。
原状回復が不可能な損害や、金銭では評価できない精神的な損害などがこれにあたります 。
例えば、歴史的建造物が破壊された場合、その建造物を金銭で再建することはできても、完全に元の状態に戻すことはできません。
単に金銭で賠償できるというだけで「償うことのできない損害」に該当しないとは限りません。
社会通念上、金銭賠償のみでは著しく不相当と認められるような損害も含まれます。
例えば、違法な身体拘束によって自由を奪われた場合、その間の精神的苦痛は、金銭で完全に償うことは難しいでしょう。
「償うことのできない損害」は、個人の権利利益の保護と公共の福祉とのバランスを考慮して判断される重要な要素です 。
「償うことのできない損害」が認められる具体例
「償うことのできない損害」は、個々のケースごとに判断されますが、過去の裁判例から、以下のような類型化が可能です 。
1. 人格権・生存権の侵害
- 生命・身体への危険: 例えば、老朽化した橋の通行許可の執行停止が認められなかったため、橋が崩落して死傷者が出た場合、生命身体への危険は「償うことのできない損害」にあたります。
- 精神的苦痛: 例えば、宗教活動への不当な介入により、精神的な苦痛を受けた場合、その苦痛は金銭では償いきれない可能性があります。
2. 経済的な損害
- 事業の継続が困難になる: 例えば、長年営業してきた飲食店が、食品衛生法違反を理由に営業許可を取り消され、その取消しが違法であった場合、事業の継続が困難になることで生じる損害は「償うことのできない損害」にあたる可能性があります。
- 回復困難な財産的損失: 例えば、貴重な文化財が違法な開発行為によって破壊された場合、その損失は金銭では評価できないため、「償うことのできない損害」にあたります。
3. 公共的な権利・利益の侵害
- 選挙権・被選挙権の侵害: 例えば、選挙人名簿への登録を不当に拒否されたため、選挙権を行使できなかった場合、民主主義の根幹に関わる権利侵害として、「償うことのできない損害」と判断される可能性があります 。
- 環境権の侵害: 例えば、工場排水による水質汚染が原因で、地域の漁業に深刻な影響が出た場合、生活環境や自然環境の回復は困難であり、「償うことのできない損害」にあたります。
- 情報公開制度の侵害: 例えば、行政機関が、国民の知る権利を不当に制限するために、重要な情報を隠蔽した場合、民主主義社会における透明性が損なわれるため、「償うことのできない損害」と判断される可能性があります。
4. その他
- 信用の失墜: 例えば、医師が医療ミスを理由に不当に免許を取り消され、それが原因で社会的な信用を失墜した場合、その損害は金銭では償いきれない可能性があります。
- 教育を受ける権利の侵害: 例えば、障害を理由に、子供が不当に就学を拒否された場合、教育を受ける権利の侵害は、将来にわたって大きな影響を与える可能性があり、「償うことのできない損害」と判断される可能性があります 。
公共の福祉との関係
仮の差止めの要件の一つに、「公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれがないこと」があります。これは、個人の権利利益の保護だけでなく、社会全体の利益も考慮する必要があることを示しています。
例えば、感染症の拡大防止のための施設の使用制限など、公共の福祉を優先すべき場合には、仮の差止めが認められない可能性があります。
裁判例では、保育所の民間移管により保育所選択権が侵害されたケース や、障害のある幼児が幼稚園への就園を拒否されたケース など、個人の権利利益の侵害が重大であり、公共の福祉への影響も軽微であると判断された場合に、仮の差止めが認められています。これらの判例から、裁判所は、個人の権利利益と公共の福祉とのバランスを慎重に考慮し、基本的人権の侵害には特に配慮していることが分かります。
個人の権利・自由との関係
仮の差止めは、個人の権利・自由を侵害する行政処分から、迅速に保護するための重要な役割を果たします。
特に、憲法で保障された基本的人権 (生存権、自由権、平等権など) が侵害される場合には、「償うことのできない損害」と判断されやすい傾向があります 。
しかし、個人の権利・自由と公共の福祉は、常に調和するとは限りません。裁判所は、個々のケースごとに、両者のバランスを慎重に考慮して判断することになります。
まとめ
行政事件訴訟法における仮の差止めは、国民の権利利益を保護するための重要な制度です。「償うことのできない損害」はその要件の一つであり、金銭では解決できない重大な損害を指します 。
「償うことのできない損害」は、行政処分の違法性を判断する上で重要な要素となるだけでなく、個人の権利・自由を守るための砦としての役割も担っています。仮の差止め制度は、行政の権力行使を抑制し、国民が安心して生活できる社会を実現するために、不可欠な存在です。