憲法判例

【憲法判例】北方ジャーナル事件について解説 検閲と事前抑制

事件の概要

北方ジャーナル事件は、1979年(昭和54年)に北海道で発生した出版差し止め事件です。

地方政治家の五十嵐広三氏が、自身に関する批判記事を掲載予定だった月刊誌「北方ジャーナル」4月号の発行・頒布の差し止めを、権利侵害差止請求権を根拠に札幌地方裁判所に申し立て、認められたことが発端となりました。

この仮処分決定に対し、北方ジャーナル側は即時抗告しましたが、札幌高等裁判所はこれを棄却。その後、最高裁判所へ上告されました。

1986年(昭和61年)6月11日、最高裁は上告を棄却し、出版の事前差し止めを認めない判決を下しました。  

本事件は、憲法で保障されている「表現の自由」と「名誉権」の衝突という観点から、大きな注目を集めました。

最高裁判決は、出版物の事前差し止めは憲法21条2項で禁止されている「検閲」には当たらないものの、表現の自由を著しく制限する「事前抑制」にあたるため、極めて厳格な要件を満たす必要があるとの判断を示しました。  

事件の背景

1970年代、北海道では開発に伴う環境問題や政治腐敗が深刻化し、それを批判する報道機関として「北方ジャーナル」は注目を集めていました。

同誌は、公共事業の不正や政治家の汚職などを告発する記事を掲載し、道政に大きな影響力を持っていました。

一方、五十嵐広三氏は、北海道議会議員や旭川市長を歴任し、道政界に強い影響力を持つ人物でした。

北方ジャーナルは、五十嵐氏に関する批判記事を繰り返し掲載しており、両者の間には深い対立が生じていました。

事件の経緯

1979年4月、「北方ジャーナル」は「ある権力者の誘惑」と題する記事を掲載予定でした。

この記事は、五十嵐氏の政治活動や私生活に関する疑惑を告発する内容でした。

五十嵐氏は、この記事が名誉毀損にあたるとして、民法723条に基づき札幌地裁に発行・頒布の差し止めを求める仮処分を申し立てました。

札幌地裁は、「ある権力者の誘惑」が五十嵐氏の名誉を毀損する可能性が高いと判断し、仮処分を認める決定を下しました。

北方ジャーナル側は即時抗告しましたが、札幌高裁も地裁の判断を支持しました。

しかし、最高裁への上告審を経て、地裁の決定は覆されました。  

最高裁判決

北方ジャーナル側は最高裁へ上告し、1986年6月11日に判決が言い渡されました。

最高裁は、出版物の事前差し止めは憲法の保障する「表現の自由」を著しく制限するものであり、以下の要件を満たす場合にのみ認められるとしました。

  1. 表現内容が真実でないことが明白であること
  2. 表現が専ら公益を図る目的のものでないことが明白であること
  3. 重大な損害が生じるおそれがあり、その損害を避けるためには事前差し止めが必要不可欠であること

最高裁は、「ある権力者の誘惑」の内容が真実であるか否か、公益目的があるか否かについては判断を示さず、重大な損害の発生を避けるために事前差し止めが必要不可欠であるとはいえないとして、上告を棄却しました。

これは、他の基準が満たされなかったため、真実性の判断を行う必要がなかったためです。

また、最高裁は、五十嵐氏が公人であるという事実を考慮しました。

公人に関する言論は、私人に関する言論よりも、表現の自由が広く認められるべきだと判断したのです。

事件に関与した主要人物

人物立場
五十嵐広三北海道議会議員、旭川市長北方ジャーナルから批判記事を掲載され、名誉毀損を理由に出版差し止めを申し立てた
北方ジャーナル北海道の月刊誌地方政治や社会問題を扱うジャーナリストで知られていた
村重慶一札幌地裁の裁判官五十嵐氏の仮処分申請を認める決定を下した。後に、この決定が違法であったとして国家賠償請求訴訟が起こされた
菅沼文雄北方ジャーナル側の代理人を務めた弁護士

事件が社会に与えた影響

北方ジャーナル事件は、表現の自由の重要性を改めて認識させる契機となりました。

最高裁判決は、表現の自由に対する事前抑制の弊害を指摘し、事前差し止めの要件を厳格化することで、表現の自由を保障する姿勢を示しました。

この判決は、その後の名誉毀損訴訟や出版差し止め事件において、重要な判例として引用されています

特に、インターネット上の表現に対する規制を考える上で、北方ジャーナル事件の判例は大きな影響力を持っています。

また、北方ジャーナル事件は、出版差し止めの仮処分に対して、より厳格な基準を設けるきっかけとなりました。

札幌地裁による最初の差し止め決定は、他の出版物にも萎縮効果をもたらし、ジャーナリストや出版社が自己検閲を行う可能性を高めるという議論も巻き起こりました。

さらに、北方ジャーナルは事件後、財政難に陥り、一時的に発行を停止せざるを得ない状況に追い込まれました。

このことは、表現の自由を侵害する行為が、経済的な圧力にもなりうることを示しています。  

事件に関する様々な見解や論点

北方ジャーナル事件は、表現の自由と名誉権のバランス、報道の自由と責任、司法の役割など、様々な論点を提起しました。

表現の自由と名誉権のバランス: 表現の自由は民主主義社会において不可欠な権利ですが、他人の名誉を侵害するような表現は許されません。北方ジャーナル事件は、この二つの権利のバランスをどのように取るべきかという問題を提起しました。

報道の自由と責任: 北方ジャーナルは、権力者を批判するジャーナリストを展開していましたが、その報道内容には疑問視される点もありました。報道機関は、権力監視という役割を果たすと同時に、報道内容の正確性や公正性について責任を持つ必要があります。

司法の役割: 北方ジャーナル事件では、札幌地裁が政治家の申し立てを認め、出版の事前差し止めを命じました。司法は、表現の自由を保障する役割を担うと同時に、個人の権利を守る必要もあります。司法の判断が、社会に大きな影響を与えることを示す事例といえます。

まとめ

北方ジャーナル事件は、表現の自由と名誉権の衝突、事前抑制の要件という、現代社会においても重要な問題を提起した事件でした。

最高裁判決は、表現の自由の重要性を改めて確認し、事前差し止めの要件を厳格化することで、表現の自由を保障する姿勢を示しました。

この事件は、単なる出版差し止め事件にとどまらず、表現の自由、報道の自由と責任、そして司法の役割について、私たちに深く考えるきっかけを与えてくれます。最高裁が「ある権力者の誘惑」の真実性について判断を示さなかったことは、裁判所が内容の真偽よりも手続きの正当性に重きを置いていることを示唆しています。

参考文献や資料

日本雑誌協会・日本書籍出版協会50年史  

名誉毀損表現の差止めに関する再検討-日米の判決を手がかりとして-  

最高裁判所判例集(昭和61年6月11日判決)URL:https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=52665

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